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別荘地とは何か?

軽井沢の最も価値ある財産が、保養地=別荘地にあることは議論を待たないところです。軽井沢の森に、ゆったりと余暇を過ごせる別荘を持つということが、多くの人々の憧れとなる所以です。しかし、厳密に別荘地とはどのような土地であるか、考えてみたことはあるでしょうか? 別荘地は当然ながら家を建てる宅地ですが、建築を監督する法律上、一般住宅と別荘地という区別はありません。では、宅地と別荘地を区別するものは何でしょうか? 軽井沢の別荘というと、緑豊かな森に低層の木造の別荘がひっそりと立ち並ぶさまを多くの人が思い浮かべるでしょう。明治時代、最初に軽井沢に別荘を建てた外国人宣教師たちはその信条に沿い、自然に寄り添う質素な別荘を建てることが多かったのです。 別荘も家の一種ですが、しかし、普段住んでいる所ではない何処か別の所で、便利さ、損得、などに縛られた日常生活の頸城を一時解き放ち、自然の静寂へと聞き入る。このような別荘では、普段住んでいる家とは違う性格も求められます。 そのためには、人間社会べったりの日常から、わたしたちの目をそらせてくれる、自然が必要です。しかしながら、別荘地といえども資本主義経済の洗礼を逃れることはできません。多くの人々が軽井沢に別荘を求めればそれだけ森が切り倒され、別荘の本質的価値である豊かな緑と静寂が失われる、軽井沢とて、現代のわたしたちを縛っている商業主義のジレンマの下にあります。 この中で、軽井沢の別荘地の自然の保全に大きな役割を果たしているのが、長野県条例です。これにより、長野県では別荘地に最低300坪、建ぺい率容積率はそれぞれ20%という非常に厳しい制限を課しているのです。 これはつまり、300坪の土地を買っても、家を建てられるのはその2割まで、つまり60坪までということを意味し、残りの8割の森が守られることが期待できます。 しかし、期待はあくまで期待、中には自分の土地だからといって、木を見事に皆伐してしまう人々も中にはいます。 また、マンションも環境を守るうえで大きな問題となります。 マンションを建築することに寄ってもたらされる莫大な利益は、土地の持ち主と建築会社(そしては行政にも)大きな魅力であるからです。 その意味で軽井沢は、2001年にマンション軽井沢メソッドを宣言した当時の軽井沢町長 佐藤 雅義と長野県知事 田中 康夫に多くを負っています。 http://karuizawa.style.coocan.jp/sengen.htm この軽井沢マンションメソッドが制定された当時、大手ゼネコンの一角が旧軽井沢万平ホテル裏の丘を切り崩して、マンション建設を計画しているとの噂までありました。旧軽井沢、万平ホテル近辺の雰囲気を知っている人なら、このような開発をすればそれは軽井沢の死を意味することは、容易に想像がつくでしょう。 タワーマンションが林立する軽井沢を想像できるでしょうか? 越後湯沢に起こったことを回想すれば、軽井沢でも同様の事態に陥ったことは容易に想像できます。 そして、佐藤町長と田中知事はマンション軽井沢メソッドを宣言することで、軽井沢の救世主となったといっても過言ではないでしょう。

軽井沢エリア探索〜南ヶ丘/南原

避暑地、別荘地としての軽井沢の発祥となったのは間違いなく旧軽井沢地区です。旧軽井沢銀座の雑踏から一歩は慣れるとそこは別世界、深山の静けさと夏でも薄暗く涼しい空気が、すべてにおいて過剰な都市生活に疲れたわたしたちを癒してくれます。 旧軽井沢から離山、そして国道18号および鉄道線路の南側と18号バイパスに挟まれた地域、つまり南ヶ丘と南原を、わたしは密かにレアル軽井沢、軽井沢クイントエッセンスと呼んでいます。 つまり、軽井沢を軽井沢たらしめている要素が最も色濃く現れている土地だと考えています。 軽井沢のエッセンスとは何か? もちろん様々な意見があるでしょう。旧軽井沢は、東に碓井峠、北に愛宕山など北軽井沢へと続く峰、そして西に離山と三方を山に囲まれています。そして軽井沢の地名が示すように、このこの場所は沢=谷です。幸福の谷という呼び名があらわしているように、此処の空気には其処にはない何かの精のようなものが漂っているかのようです。軽井沢にあれほどまでの文学者が引き寄せられた所以でしょう。 しかし地元の人たちにいわせれば評価は反対となります。旧軽井沢は暗くて寒い、そして湿気が凄く高い。旧軽井沢 → 中軽井沢 → 追分、そして御代田へと降りてくると、それにつれ気温は上がり、湿気は反対に下がり暮らしやすくなります。 南ヶ丘、南原地域を歩けばわかりますが、開けた新軽井沢を越えて線路の南側へと出てみると、樹々が生い茂った風情は旧軽井沢にとても似ています。しかし心なしか少しばかり明るさを感じます。 南ヶ丘は青山ゴルフ場、軽井沢ゴルフ倶楽部などゴルフ場に特徴付けられます。このことも南ヶ丘の明るい印象に一役買っているのでしょう。 通常は、南ヶ丘と南原は南原通りを隔てて、東側が南ヶ丘、西側が南原と考えられています。しかし、わたしは個人的には、南ヶ丘と南原は東西というよりは、南北に分かれているのではないかと考えています。 わたしがそう考えるのは、南原通りの東側であっても線路に近い北側の地域では南原の標識があるからです。 また反対に南原通りの西側であっても、南原通りをバイパスに向かって2/3ほどいったところにある見事な渓谷、これの南側は南ヶ丘と呼ばれているからです。 南ヶ丘と南原を比べると南ヶ丘は明るい。それに比べると南原はもう少し粗い、まさに原野との雰囲気を残しています。少しより旧軽井沢に近いといってもいいかもしれません。 しかしどちらにせよ、三方を山に囲まれるという旧軽井沢の閉鎖的な地形とは異なるせいか、旧軽井沢よりも開けた明るい印象があります。別荘オーナーたちに聞いても、冬の寒さ、湿気ともに旧軽井沢よりも穏やかであるようです。 何よりも、地価が旧軽井沢ほど高くなく、しかしそのエッセンスは十分感じられる。それでいてどこにいくにも近い。これは特に、最近スーパーマーケットツルヤを筆頭に軽井沢の大型商業一説がバイパス沿い、鳥井原周辺に相次いで建設されているという生活利便の問題もあり、南ヶ丘、南原は軽井沢で一番の人気地区となっているようです。

軽井沢の別荘の値段

多くの人の憧れの的である軽井沢の別荘。一体いくらくらいの値段なのでしょうか? もちろん、軽井沢といっても広い、ですから別荘の値段ももちろん千差万別です。 まず最初に知っておくべきことは、軽井沢では、というより長野県では条例によって別荘地の最低単位が300坪に設定されていることです。そして軽井沢の多くの地域では、容積率が20%に限定されています。つまり、300坪の土地を買うと建てられる家の広さは最大限60坪ということになります。 これは、別荘地の森や緑を守るという配慮に基づいているもので、軽井沢の別荘地の環境を守るうえで大きな役割を果たしているといえるでしょう。 さて別荘地の最低単位が300坪であるということは、坪単価がもし10万円であれば、3000万円を出せば、300坪の土地を買えることになります。実際のところはどうでしょうか? 今に本全国の不動産市場を見て気付くことは、いわゆる二極化が進行しているということ。つまり、観光地でもない田舎の民家や山、そして管理費ばかりがかかるリゾートマンションではただでも買い手が着かない有様で、負動産という言葉までが出てくる始末。それに加えて、東京の地価はかなり高くなってきています。 もっと詳しく見ると、東京でも郊外の住宅地では値段が上がらないにもかかわらず、銀座は表参道といった有名商業地では、かなりの上昇を見せています。 軽井沢は別名東京24区と呼ばれていることをご存知ですか? これは、軽井沢には東京の人とお金が多く流れ込んでいるという現実をうまく言い当てた言葉だと思います。そして、軽井沢でも同じ不動産の二極化が進んでいるように思われます。 では、軽井沢のどの地域が値段が上がっていて、どの地域が下がっているのか? 少しミクロに詳しく見てみたいと思います。

軽井沢エリア探索〜旧軽井沢

あなたは軽井沢に何を求めますか? もちろん、人によって軽井沢に求めるものは微妙に異なるでしょう。元々、明治時代に別荘地、保養地としての軽井沢を見出したのは、明治時代の外国人宣教師達です。キリスト教を布教するためという大義を掲げ、大海を渡ってやってきた彼らですが、異国の風習、言葉がまったく分からない当時、日本の生活には並々ならぬ労苦があったことでしょう。 また、ヨーロッパやカナダという日本よりの高緯度の国々からやってきた彼らを苦しめたのが、日本特有の夏の蒸し暑さでした。そのような彼らにとって、軽井沢の涼しさ、そして高地にありながら比較的平坦な軽井沢の地形に、故郷を思い出させるものを見たのかもしれません。 これらの外国人宣教師たちが最初に軽井沢に別荘を建て出したのが、旧軽井沢地区でした。当時のメインアクセスとなる旧中山道は群馬県側から旧軽井沢へと出てきていたので、当時に今のつるや旅館あたりは軽井沢の玄関口、このあたりに別荘を建てるのは自然なことだったのでしょう。 さて、遠くは慣れた異国の地に住み、とりわけ日本の夏の暑さに倦んだ彼らが求めたのは、自然の癒しでした。当時の写真を見ると軽井沢には今ほど大木がなく、草の高原といったイメージですが、今では旧軽井沢地域は大木が多く、夏でも日差しが遮られ涼しいという要素を最も色濃く持っている地域であるように思われます。 また、旧軽井沢は東に碓井峠、北に愛宕山、西に離山と三方を山に囲まれた地形であることも、気候に影響していると思われます。わたしも旧軽井沢が好きで時に別荘地を散策しますが、その時に感じ独特な落ち着いた感覚はこの地域に特有です。 軽井沢の原点ともいえる軽井沢ですが、ここに見られる魅力的な別荘の多くは多くの場合人気がなく、それほど活用されていないようにも見えます。ひとつにはもともと軽井沢の別荘は夏だけの使用を想定されてきたので、ここに多く残る古い別荘では断熱が充分でなく、通年の利用には耐えられないことも原因にあるようです。また、旧軽井沢は夏は涼しいが一年を通して湿気が高く、軽井沢町の中でも最も暮らしにくいとは地元の人々が口を揃えていうことです。 旧軽井沢地区の知名度の高さ故、土地の値段が高いことも影響してそうです。当然、場所によりますが、この地区の土地単価は坪30万円程度はするでしょう。長野県の条例で、別荘地は最低300坪必要ですから、旧軽井沢に別荘を持とうと思うと、土地だけで9000万円、一般の人々には到底手が届きません。不動産売買もそれほど活発に動いてはいないようです。 夏の避暑地から通年のネイチャーランドへ、今旧軽井沢はその素晴らしい魅力を次代に受け継ぐ術を知らず、ある意味産みの苦しみにあるといえそうです。

軽井沢の冬への備え

標高1000mの高地に位置する軽井沢の冬の気候は、いうまでもなく厳しいものです。そもそも、軽井沢は明治時代に避暑地として見出されたので、夏のしのぎやすさが重要で、冬にまで滞在する人はそれほど多くありませんでした。それだけ、軽井沢の、特に三方を山に囲まれて森が広がる旧軽井沢地域の冬は厳しく、定住者の間では、中軽井沢〜追分〜そして御代田と西にいくにつれ暮らしやすくなるとは一種の定説となってきたのです。 しかしながら時代は流れ、今軽井沢で家を買い求める人で、以前のように夏の滞在だけが目的という人はそれほど多くありません。春、秋はもちろん冬の通して軽井沢に滞在したいと考えて家を買い求める人が大多数であるように思われます。 それでは、厳しい軽井沢の冬をどのようにして快適に過ごせるのでしょうか? まず第一に考えなければならないのは家の断熱です。そもそも軽井沢の伝統的な別荘は夏の使用しか考えられていませんでしたから、断熱材が入っていません。古い別荘で傾斜地では、基礎も独立基礎で高床式、寒風がぴゅうぴゅうと吹き抜けます。これではとても冬を過ごすことはできません。 今建てられる家では流石に壁に断熱材が入っていないということはないでしょうが、それでも欧米に比べて残念ながら日本の住宅の性能は劣ってきました。典型的なのがアルミサッシのシングルガラス。これでは窓を閉めて折角室内を暖めても熱はどんどん窓から逃げていきます。 そして外の軽井沢の冷たい空気に冷やされたサッシには結露がびっしょりと着きます。軽井沢のような寒冷地ではサッシは断熱性が高い木製か樹脂製が望ましいでしょう。そしてガラス面からの熱損失を少なくするために、12mmの空気層を持つペアガラスを入れると、窓に近づいてもひんやり不快な想いをすることがなくなります。 そして、もちろん重要なのが外の冷たい空気を室内から遮断する断熱。断熱にはどのような材料、すなわち断熱材を使うか、そしてどこを断熱するのか? つまり壁なら壁の中に断熱材を詰めるのか(=充填断熱)、上は天井かそれとも屋根断熱、そして下は床断熱、それとも基礎断熱かという様々な選択肢があるのです。以前から、この断熱方式が最高!という人々が自説を主張してくることが多いですが、しかし、家の断熱に1つの正解は存在しません。時と場合、予算や立地によって、最前の手段は変わってくるし、そしてもちろん無視できないのが住む人の感性です。 どちらにせよ、寒冷地の軽井沢では充分な断熱をすることが必要です。一般的に使われるグラスウールでももちろん施行方法によっては暖かい家を建てることはできますが、板状のポリスチレンなどを家の外側からぐるりと囲う外張り断熱や古新聞師を粉砕したセルロースファイバーをブロワで吹き込む方式などこだわりの断熱方法もいろいろあります。 寒冷地だからと床暖房を好む人が多いですが、下の断熱つまり床あるいは基礎を充分に断熱しないと床を暖めてもその熱が床下から外へと逃げてしまう、床下断熱になってしまっては意味がありません。また、床暖房は人が接する床の温度が体温より高くなるので、不快に感じる人もなかにはいます。 どちらにせよ、軽井沢に別荘を建てる時には断熱、そして暖房方法をセットで考えることが必要でしょう。 充分な冬対策を施した暖かい家で外でしんしんと雪が降る森を眺める、暖炉の火に乾杯などという上質の冬の時間も軽井沢の贈り物なのです。

軽井沢は雪国?

”軽井沢の冬には雪はどれくらい積もるのですか?” ゲストからよく聞かれる質問です。考えてみれば、夏の避暑地として有名な軽井沢、一般の人々にその冬のイメージがないのも自然なのかもしれません。 軽井沢は標高約1000Mの高地、当然冬の寒さは厳しくなります。軽井沢という地名の発祥が一説には”凍り沢”であるともいわれる所以で、冬型の寒い日では昼間の最高気温が0度を越えないいわゆる真冬日も珍しくはありません。夜間の基本はマイナス10度を下回ることも... しかし、その寒さに比例して雪も降るのかというと必ずしもそうではありません.軽井沢は基本的に太平洋型気候、東京で空っ風が吹いて冬晴れの時は、軽井沢でも大体晴れています.しかし寒い.この時、新潟などの日本海側では雪がしんしんと降っています. そして、軽井沢で雪が降るのは、東京で雨、あるいは雪が降っている時なのです. このような時には、軽井沢でもかなりの降雪になります。国道18号などの幹線道路でも雪に覆われてしまいます。ただ、この雪は2、3日で解けてしまうことがほとんどですが、交通量の少ない別荘地では根雪となって長く残っていることがよくあります。 だから、冬の軽井沢を車で訪れず時は、スノータイヤが必須です。それも4本とも装着するのが安心。道に雪がなくても、気温の低い軽井沢では路面が凍結していることもあるのでなおさらです。 冬道を運転するのに適した車というと判で押したように4WDとの声が返ってきます。 しかし、自分の経験では、FF =前輪駆動とFR=後輪駆動の間には、4WDとFF との差よりも遥かに大きい差があるように思われました。1500ccクラスのFFのサニーで軽井沢から万座温泉に何度もスキーに出かけましたが全く何の問題もありませんでした。 それに対して、大排気量のFR車を駆り意気揚々と友人が軽井沢を訪れた時は、中々大変でした。大出力の馬力が災いし加速の際にお尻をふってしまうのです。そして、車の向きをハンドルで制御する前輪に駆動力がかからず、また後輪の駆動力で前輪が上がってしまうせいで、車のコントロールが大変難しくなるのです。 軽井沢といういえば夏!という時代は過ぎ去り、今軽井沢に家を求める人々は大体通年での利用を考えています。高原で太平洋側、寒くが豪雪地帯ではないがしかしたまにドカ雪が降るという軽井沢の冬の気候とうまくつきあえば、しずかな冬の森での生活というご褒美があなたを待っているのです。

冬の主役〜暖炉

外は冷たい空気の中をしんしんと雪が降り積もる中で、家の中では暖炉が暖かく燃えている。伝統的に避暑地のイメージが強い軽井沢ですが、最近では寒い冬の軽井沢も人気があるようです。その原因の1つがアジアからの観光客。台湾や香港といった南国から軽井沢を訪れる観光客も増えているようで、それも冬が以外な人気です。 考えてみれば、本格的な冬や雪を持たない彼らが、懍と冷えた冬の森に憧れを覚えても不思議ではないのかもしれません。 しかし、寒くて嬉しいのは外だけの話、やはり家ではほかほかと暖かく過ごしたいものです。冬の暖房手段として有名なのが暖炉です。古い別荘では、石で組まれた威風堂々として暖炉がリビングルームの中央に鎮座していることもしばしばです。 しかし実は暖炉には2種類あることをご存知でしょうか? 雰囲気は最高な暖炉ですが、当然暖房能力も大切です。そして、その暖房能力には暖炉のタイプが大きく関わっています。 元々伝統的な別荘で主に使用されてきたのが、解放型暖炉です。これはいってみれば、家の中の焚火に煙突を付けたようなものです。炎と人の間には何も境がないので、炎を直接に感じられる、特に薪が弾ける音が聴こえるのは、大きな魅力です。しかし、原始的な構造の故に、暖房能力はそれほどでもないようです。暖炉の炎が生み出す熱の多くは煙突から外に出て行ってしまうからです。   開放型暖炉を熱効率の点で改善したのが薪ストーブです。暖炉では炎が室内に直に接しているのに対して、薪ストーブでは木は密閉された箱の中で燃やされます。これにより炎の燃え方を調整するために、空気の量を調節することができるようになり、薪をより効率的に燃やせるようになりました。 それでは開放型の暖炉と薪ストーブのどちらが別荘の暖房としてふさわしいのでしょうか? 暖房効率に劣る開放型暖炉も最近では暖められた空気を煙突から降ろしてきて室内に流入させるハイテク、ハイブリッドなタイプも出てきました。薪ストーブが持つ圧力があるかのような暖かさはないですが、炎を直に眺め、音も同時に楽しめる点も開放型暖炉の大北魅力です。 薪ストーブと暖炉、どちらを選ぶかは最終的にはその人の感性にいきつくのでしょう。 そして感性の世界に、ただ1つの正解はないのです。

軽井沢の主役たち

軽井沢の舞台といえば何といっても森です。日本は雨に巡られた天候から国土の大部分を緑に覆われていますが、緑が豊富にありながら山ではなく、比較的に平坦な高原である風景がヨーロッパにも似たロマンチックな風景を軽井沢に形作っています。 標高約1000mにもなる軽井沢の気候は冷涼で、北海道の札幌にも相当するともいわれています。このような軽井沢の森ではどのような登場人物に出会えるのでしょうか? 軽井沢の木としてまず有名なのがカラマツです。秋に落葉する珍しい針葉樹としても知られるこの木から落とされる、針のような葉が別荘の屋根にたまっている光景をよく見かけることがあります。しかし、意外にも、このカラマツはもともと軽井沢にそれほど生えていた訳ではなく、外国人宣教師たちが別荘を造り始めた明治時代当時、草原が広がっていた軽井沢の緑化のために植樹されたようです。 確かに明治時代の軽井沢の写真を見ると、今見られるような大木はあまりなく、森というよりは草原の風景が広がっています。 それでは、元々軽井沢にはどのような木があったのでしょうか? カラマツ、もみが深く茂って昼なお暗い旧軽井沢地域を抜け、中軽井沢から追分の地域へ移動すると、旧軽井沢よりも印象が明るいことに気がつきます。中軽井沢地域などでは開けた住宅地域があることも関係しているでしょうが、軽井沢中西部の森では、旧軽井沢に比べて広葉樹が多いように見られることも関係しているのではないでしょうか? この地域の森では、カラマツ、もみといった”常連”に加えて、栗、ミズナラ、もみじ、そしてニレなどの広葉樹の森をよく見かけます。これらの落葉広葉樹は軽井沢の気候によく合います。 東京よりは約1ヶ月季節の進みが早い軽井沢、10月後半ともなるとこれら軽井沢の主役達がその葉を思い思いの色に染め上げます。轟々と轟く秋の風になぶられ、黄金の紅葉を落とす軽井沢の樹々。日々の喧噪を離れ、このような自然の恩寵と向き合うことこそ、軽井沢の楽しさの醍醐味であるといえるでしょう。

軽井沢の起源

別荘地としての軽井沢は明治時代にカナダの宣教師に見出されたことが発祥であることはよく知られています。旧中山道沿いのひなびた寒村であった明治時代初期の軽井沢、冷涼な気候と溶岩系の土壌の軽井沢は農作に恵まれた環境とはいえなかったでしょう。実際に、明治時代の軽井沢では樹木は薪として苅られ、今よりもはるかに緑が少なかったと記録されています。