軽井沢辞典
1.軽井沢の起源
さて軽井沢が明治時代にカナダの宣教師によって見出された頃、 多くの人でにぎわう今と違って、明治時代初期の軽井沢は、旧中山道沿いのひなびた寒村にすぎませんでした。標高1000mの高地にあって気候は冷涼、そして土地はと火山溶岩系の土壌の軽井沢は、農作に恵まれた環境とはいえなかったようです。 また、石油・ガスがなかった当時、燃料を薪に頼る住民によって刈られ、明治時代の軽井沢の写真を見ると、実は今よりもはるかに緑が少なかったことが見て取れます。このような長野家の寒村に過ぎなかった軽井沢を見出したのが、キリスト教普及への情熱に駆られて遠く異国の日本へとやってきた外国人宣教師でした。 電気のない当時、これらの宣教師は東京の灼熱の夏にはかなり悩まされたようで、彼らにとって、軽井沢高原の冷涼な気候はまさに神の恩寵として感じられたことでしょう。軽井沢を見出した最初の宣教師として有名なアレクサンダー・ショーは、軽井沢を訪れでこの場所に感嘆し、やがて簡素な別荘を建てました。
そしてこれが軽井沢の記念すべき第一歩となりました。軽井沢を見出したのが宣教師であったことは、その後の軽井沢の歩みを決定づけることとなりました。世俗の関心よりも神への愛に生きる彼らは、日々の禁欲的な生活を軽井沢にも持ち込みました。善良なる保養地としての軽井沢の性格は、まさにその時に定められたのです。 当時の宣教師たちが別荘を構えたのは主に旧軽井沢地区でした。万平ホテルの裏手には、幸福の谷の呼び名で有名な別荘地があります。
また、旧軽井沢銀座を登り切った奥、愛宕山にも多くの別荘が作られました。まさにこの地域が別荘地としての軽井沢の発祥の地といってよいでしょう。このように軽井沢の別荘地は、近年にありがちな企業による開発ではなく自然発生したものです。だから、今でも旧軽井沢や南が丘などの別荘地では管理費を支払う必要がないのです。
人為、人の為すことから敢えて離れる、これが軽井沢の精神の一部なのかもしれません。
明治時代に軽井沢に‘入植’したのが主に外国人宣教師だったとすると、大正時代に入り、日本人の富裕層がそのあとに続きました。政治家、実業家、官僚、作家などの人々です。西洋人のライフスタイルを見習おうとする当時の風潮も大いに影響していたのでしょう。
当初の外国人宣教師たちが釜の谷、愛宕山、三笠などの主に旧軽井沢の東側に別荘を構えたのに対して、日本人上流階級たちは鹿島の森そして離山と別荘地域を西に向かって広げていきました。今鹿島の森が、軽井沢随一の高級感を誇るのも、このような歴史的背景によるところが大きいのでしょう。