軽井沢辞典

2022.10.09

MMT(現代貨幣理論)を考える

”おカネはまったくもって厄介なものだが、なければ困る” ドリトル先生

人生は素晴らしい、とは誰もが口では言うでしょうか、しかし、では、あなたは人生を満喫していますか? 今のこの1秒1秒が楽しいですか?と問われると、口ごもってしまう人が大半でしょう。なぜわたしたちはこんなにも悩んでいるのか? 多くの人にとって、その根底におカネの問題が存在することを否定することは難しいでしょう。

人生は楽しい、いや人生は楽しくなりうる、充分なおカネを持っていいさえすれば、、というわけです。資本主義と呼ばれる価値感が主流の22世紀の地球に住むわたしたちは、おカネの問題から自由であることはできません。そして、経済学はそのおカネの問題を科学的に切り分けてくれるはずの学問ですが、今その全く新しい考えが長い歴史を誇る経済学を揺さぶっています。

おカネとは何か?

人間は生きていくためにモノを必要とします。狩で肉を得るように自然から直接得ることもあれば、稲を育てて米を収穫するように自分で働いて得ることもあります。(この場合にも間接的には自然から得ているわけですが) もし物々交換がない世界では、自分が使えるモノは自分で作るあるいは得たものに限られます。わたしなどは不器用なので、このような世界ではさぞかし不自由を強いられそうです。

しかし、わたしが足が速く良い狩人だったとしたら? 少なくとも多くの日で肉をたっぷり食べられそうです。しかし、たまには魚も食べたいし、野菜を食べないと健康に悪い。ここでおカネの登場です。おカネがあれば、わたしが取った肉が腐る前にこの肉をもっていたという証拠としておカネを持っていて、そのおカネで後から野菜を買うことができます。これでわたしの生活は随分豊かになります。

もしおカネがなかったら、わたしは自分で食べられる分だけの肉しか狩らないでしょう。食べられる以上の肉があっても腐ってしまうだけだから。でもおカネがあれば、余分に肉を取って、それを売って野菜や魚を買うことができる。ということで、おカネはわたしにより多く働くための動機を与えてくれます。実際このようなおカネの魔法は少しばかり強すぎて、資本主義の世界に住むわたしたちは常に駆り立てられてしまっているのです。

このようにおカネは経済活動を刺激します。しかし、これだけのパワーを持つおカネは誰ば生み出すのでしょうか? 現在では国という、わたしたちの生活・社会を取り仕切っている構造に貨幣発行権は委ねられています。昔わたしが通った頃の大学の経済学では、最初に与えられるサミュエルソンの経済学の教科書でした。これは今でも使われているのでしょうか?この教科書には、有名な需要ー供給曲線の説明とともに、3つの経済主体、つまり家計・企業・政府の区分が説明されていました。

家計とは人間が生きていくための基本単位です。そして人間は生きていくために必然的に消費しますから、家計ー消費部門と呼ばれます。それに対して企業は、人間の生存と幸福のためにモノを生産する分野です。


さて少し最初の一歩に戻って考えてみましょう。なぜわたしたちは働くのでしょうか? 元々わたしたちが働き出したその原因は、わたしたちが生存するためでした。お腹が空いたら食事を探す、そして冬の寒さから身を守るために住処を建てる、、、などなど。このような衣食住の基本的にニーズが満たされると、その後わたしたちの欲望はさまざまな形で展開していきます。何を欲望し、そしてどのような商品を生産することでその欲望を満たすのか? 旧ソ連などの社会主義国では民間企業の存在を許さなかったので、そのような社会のグランドデザインを描くことは政府=官僚の手に委ねられました。そしてそれが見事に失敗したことは、まだわたしたちの記憶に新しいところです。

それに対して資本主義経済下では、どのような財を生産するか、そして生産活動をどのように管理するかは基本的に企業の手に委ねられます、社会主義経済の行き詰まり、そしてその後のソ連の崩壊を見ての通り、政府が生産活動を独占することの過ちは明らかでした。そして、勝ち誇った資本主義陣営は社会主義の考えの反対を極限まで突き進めます。生産、すなわち経済活動の公的セクターの一切の活動を嫌がる新自由主義の台頭です。経済活動における政府の存在はできるだけ小さくすべし。そのような政府の活動資金となる税金もできるだけ少なくすべし、そしてまた市場経済における政府の規制もまた。

財政均衡論=プライマリーバランスもこのような新自由主義の考えから導き出されたものです。政府の支出は厳正に税金を徴収する範囲ないとすべし、なぜなら政府は余計なことをすべきではないからです。極端な新自由主義者の中には、政府が存在せず、すべてが市場にって運営される都市や国を夢見る人もいるほどです。

さて経済学では家計・企業の民間部門と政府の公的部門は区別されていますが、それは当然役割が違うからです。政府は基本的には経済活動の主体ではなく、それを規制する立場にあります。政府に与えられた権限の中で最も大きいものがおカネを発行すること、すなわち信用創造です。

新自由主義者は基本的にありとあらゆる政府の行動を嫌っていて、なんと信用創造の仕事さえ取り上げようと画策しています。そのような発想で生み出されたのが、仮想通貨~暗号資産です。彼らは政府の特別性を認めないわけで、このことから家計・企業の民間部門と政府の公的部門を同じように扱いたいという暗黙の欲求があります。彼らにしてみればすべてを市場経済で運営したわけですので。

私は個人的には、小さい政府、プライマリーバランスなどの新自由主義的な考え方は、このような思考枠組みから生み出されたのではないかと考えています。政府の特別性を認めないから、税金徴収は政府の収入、そして財政出動は政府の支出というわけです。まるで家計での給与と支出のように。

よく聞かれる”税制赤字は政府のすなわち国民の借金(だから大幅な財政出動は無駄遣いであり、子孫へのツケとなる)との文言も、このような思考枠組みに依存しているわけです。

しかし、MTTはこのような公的部門と民間部門の同一視に異議を唱えます。MTTは現代貨幣理論という名前の通り、おカネ=金融に関する考え方なので厳密には、積極財政か緊縮かという問題に対しては中立的です。ただ、信用創造という強大な権限を持った政府の経済活動を民間部門と同一視することに異議を申し立てるのです。

民間部門、すなわち家計と企業が収入以上に支出し続けることはできません。いずれ破綻します。そしてこの点で民間と公的部門を同一視するのが今まで一般的な視点でした。しかし、MTTはいいます。
”一体全体なぜおカネを発行できる政府が破綻するということが論理的に成り立つのか? 支出する額だけおカネを発行すればよい。”

もちろん、直観的に考えてわかるように、政府は無限におカネを発行する、すなわち財政赤字を無限に拡大できるわけではありません。なぜなら、最後にモノをいうのはおカネではなくモノだから。もし日本政府が来年度予算を突然100枚に増やしたら、わたしたちの富は100倍に増えますか? 増えないですよね、なぜならそのおカネを使って買うモノが市場に存在しない、すぐには生産できないからです。すなわち供給力の限界です。

MTTによると、通貨発行権を持つ政府がどこまでおカネを発行してよいかというと、それは
”インフレを生じるまで”ということになります。少し考えればわかるように、このMMTの主張は今までの主流の考え方である”政府財政赤字は少なければすくないほどよい。” とは根本的に異なります。だからMMTはプライマリーバランス論を攻撃するのです。

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